桶狭間の戦い
1560年(永禄3年)尾張を統一して間もない織田信長が、駿河、遠江、三河を治め、海道一の弓取りと言われた今川義元の10倍に余る大軍を打ち破り、近世という時代の幕を開けた日本史上特筆すべき戦いです。また、参戦した信長、義元、家康3武将の運命を大きく変えた戦いでもあります。
桶狭間武将三路
桶狭間の戦いでは、織田信長と今川義元の名が挙がりますが、戦いの前日に大高城に兵糧入れを敢行した若き徳川家康(松平元康)の存在も見逃せません。地元桶狭間では、3武将の辿った路を「信長路」、「義元路」、「家康路」とし、これらを「桶狭間武将三路」と名付けてご案内しております。
桶狭間古戦場史跡めぐり
桶狭間古戦場は、名古屋市南部の緑区にあります。今は住宅地となり当時の面影は薄くなっていますが、織田信長の一代記「信長公記」に言う「おけはざま山」や地元に残る伝承史跡が点在しており、地形と併せて合戦当時の思いを馳せて巡って頂けます。当古戦場保存会では、ガイドも行っておりますので、気軽にお申し込みください。

① 高根山(桶狭間神社)

この辺りで一番高く、鳴海城や善照寺砦、中島砦など一望でき、高根山から幕山の丘陵に今川軍前衛の松井宗信隊1500が布陣して、織田軍の動静を監視していた所です。また、織田軍の佐々・千秋陽動隊と交戦し、撃破したと言われております。

② 釜ケ谷

善照寺砦から精鋭2000を連れて中島砦を経由、暴風雨の中有松駅裏側の山中を抜け進軍した信長が、おけはざま山の今川本陣に突撃する機を窺った所です。そして、雨上がるやすかさず突撃し大勝利をおさめました。写真は、昭和初期の釜ケ谷の風景です。

③ おけはざま山

信長公記にある「義元おけはざま山に人馬の息を休めこれあり」と言われているところです。前衛隊が布陣する巻山、幕山、高根山とも連携が取れ、水や牧草にも恵まれていました。また、当時主要な道であった三河道にも近いことから、本陣として選ばれたと思われます。

④ 桶狭間古戦場公園

古来より田楽坪と呼ばれ、おけはざま山本陣から深田脇のここまで追い詰められた今川義元が、討取られた最期の地です。公園内には、義元の墓碑や信長・義元の銅像、当時の地形を模したジオラマ、合戦を解説した看板などがあり、桶狭間古戦場の中心的な史跡です。

⑤ 瀬名氏俊陣地後

義元の妹婿である瀬名氏俊が本陣設営のため、先発隊として5月17日に着陣した所です。地元では「セナ藪」と呼ばれています。実際の場所は、碑のある所より東へ150mほど入った所です。おけはざま山に本陣を設営した後、瀬名氏俊は大高城に向っていたので戦死を免れました。

⑥ 長福寺

1538年(天文7年)創建の浄土宗寺院。戦いの後、首実検をさせられた義元の茶坊主・林阿弥は、後に主君を弔うため阿弥陀如来像を持って寺を訪れたと言う。堂内には、今川義元と松井宗信の木造が安置されています。また、境内の奥には桶狭間の落武者が使用していた泉があります。

⑦ 七ツ塚

信長は、義元を討取った後、釜ケ谷に全軍を集め勝どきを上げ、村人に戦死者を埋葬するよう命じ清州に引き上げました。山裾に沿って七つあった塚の一つが残されており、地元の方により今も懇ろに供養されています。

⑧ 井伊直盛陣地跡

義元本隊の前衛として、北方の松井隊(高根山)と連携し、井伊直盛隊はこの南方の丘陵に布陣しまた。戦いの時この丘陵は、織田軍に取り巻かれ多くが戦死したと伝わっています。それ故、この地を「巻山」と名づけられました。

⑨ 戦評の松

戦い当時大きな松があり、この下で瀬名氏俊が戦評を行ったと言われています。初代の松は大松と言われていましたが、伊勢湾台風で枯れ、現在は3代目の松です。旧暦の5月19日に白馬に乗った義元の亡霊が現れたとの伝説もあります。

⑩ 桶狭間神明社

桶狭間村は、14世紀の中頃に南朝の落武者によって興されたと言われ、神明社も早い時期に創建されたようです。戦いの時、瀬名氏俊が戦勝祈願した際の酒桶が残っており、また、4代尾張藩主徳川吉道が植えた杉の古木が、神木として本殿の前に立っています。

⑪ 桶狭間大池と万灯会

桶狭間古戦場まつりフィナーレを飾る「万灯会(まんとうえ)」の会場となる大池です。合戦当時は沼であったようですが、江戸時代に改修されて現在の姿となりました。毎年、今川・織田両軍の戦死者数と同じ約3500個の灯ろうを池の周囲に並べ慰霊しております。

⑫ 桶狭間古戦場観光案内所

桶狭間の戦いに関するパネル展示・解説と関連ビデオの視聴及び関連書籍の販売。・桶狭間の戦い・おけわんこグッズの販売。・甲冑試着体験等の提供と、史跡散策される方に、駐車場、トイレ、休憩等のご利用もいただいております。AM10時〜PM4時まで

織田信長・今川義元銅像「近世の曙」

桶狭間の戦いから450年の2010年に、桶狭間古戦場公園に建立された合戦の主役・信長27歳、義元42歳の銅像です。桶狭間の戦いに勝利した信長は、その名を天下に知られるところとなり、持前の果敢な行動力で ‟天下統一と近世”への礎を築きました。一方、海道一の弓取りと言われた義元も、時代を先取りした領国経営を行なっており、共に新しい日本の改革者であったと言えます。この両雄を称え、歴史の転換点となった戦いの地「桶狭間」に建つ像に「近世の曙」と命題しました。